古河城の起源
平安時代の末期に、下河辺行平が古河の立崎(竜崎)に築いた城館とされている。室町時代には、足利成氏(古河公方)が本拠とし、以後、戦国時代の関東における中心の一つとなった。江戸時代には、多くの譜代大名が入れ替わりで城主を務め、近代城郭として整備を進めた。古河藩庁が置かれて、行政機能を担うとともに、将軍の日光社参時の宿として、あるいは、江戸城の北方の守りとしても機能した。明治時代初期に廃城となり、明治末に開始された渡良瀬川の大改修の際に、残された城跡も大半が消滅した。渡良瀬川の堤防上、三国橋と新三国橋の中間付近には「古河城本丸跡」と書かれた標柱が設置されているものの、周辺に説明板などは設置されていない(2008年9月現在)。
古河城は渡良瀬川の河畔にあり、その位置付けは、人と川との関わりに影響されてきた。 渡良瀬川は、上流では主に栃木県・群馬県の県境近辺を流れ、下流では太日川(今の江戸川)と名前を変え、千葉県・埼玉県の県境近辺で利根川と並行して、東京湾に流れ出ていた。従って、関東を東西に分かつ境界線であり、また、河川交通により北関東および東京(江戸)・房総を結ぶ物流と交通の幹線であった。このような地理的条件は中世および近世に本城が重視される要因となり、近代の治水問題は城跡を徹底的に破壊する大規模な河川改修事業の要因となった。
歴史・沿革
平安時代末~鎌倉時代(城の起源)
平安時代末に源頼朝に従う武将下河辺行平が、古河の立崎(竜崎)に城館を築いた(『永享記』等)。正確な時期は分らないが、行平が活躍し始めた1180年頃が目安となる。立崎は渡良瀬川とその東側に広がる沼地にはさまれた半島状の台地であった。
また、行平を荘司とする下河辺庄は、茨城県古河市、千葉県野田市、埼玉県幸手市・吉川市・三郷市など、渡良瀬川とその下流の太日川(今の江戸川)に沿って広がっていた。
このころ、以仁王の挙兵にて敗死した源頼政の首を従者(下河辺行義?)が持ち帰り、立崎に葬ったと言い伝わる。近世古河城では頼政曲輪となる。
行平以後、北条氏が鎌倉幕府の実権を握ると、北条氏の支配下に移ったと考えられる。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
室町時代には、古河御陣とも呼ばれていたそうです。
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